ハインリッヒ・ヒューブラー(Carl Heinrich Hübler, 1822–1893)/4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック

2022年に生誕200周年を迎えるドイツ・ドレスデンのホルン奏者かつ作曲家のカール・ハインリッヒ・ヒューブラーについて、1. ホルン奏者としての生涯、2. 作曲家としての一面、3. ヒューブラーとザクセン王室宮廷楽団関係者、4.「4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック」の項目から解説する。

1. ホルン奏者としての生涯

1822年12月4日、ドレスデン近郊のヴァッハヴィッツでワイン醸造家の息子として生まれたカール・ハインリッヒ・ヒューブラーは、初めにヴァイオリンを、後にピアノとホルンを習い、ホルンはドレスデンのザクセン王室宮廷楽団(現ドレスデン・シュターツカペレ)のホルン奏者アウグスト・ヴィルヘルム・ハーゼ(August Wilhelm Haase, 1792–1862)に師事した。1841年、ヒューブラーはドレスデン近衛歩兵連隊にホルン奏者兼第2ヴァイオリン奏者として入隊し、約4年間在籍した。1843年、ハーゼと同じくザクセン王室宮廷楽団に所属していたホルン奏者ヨーゼフ・ルドルフ・レヴィ(Josef Rudolf Lewy, 1802–1881)のホルンカルテットに参加し、1844年5月からは病人の代役としてザクセン王室宮廷楽団で演奏した。1844年11月1日、ザクセン王室宮廷楽団の第3ホルン奏者として採用され、1851年10月16日に第1ホルンのポジションを引き継ぎ、楽団員に任命された。ヒューブラーは、ザクセン王国を超える名声を獲得し、1886年には室内楽の名手(Kammervirtuosen)に任命された。1891年11月1日まで同職を勤め上げ、1893年4月14日にドレスデンで死去した。

2. 作曲家としての一面

ヒューブラーはドレスデン作曲家協会(Tonkünstler-Verein der Stadt Dresden)の共同創設者として25年にわたり役員を勤めた。また、1850年5月2日に、社交場として機能した友愛団体(フリーメーソン)の„Zum goldenen Apfel”から好意的に受け入れられ、1865年11月23日にはマイスターへ昇格した。ヒューブラーは音楽監督として数多くの編曲を手がけたほか、ホルンのためのソロ作品やホルン四重奏曲を作曲した。残念ながらその多くは未発見のままである。

3. ヒューブラーとザクセン王室宮廷楽団

ヒューブラーの故郷であるザクセン州の国家便覧(Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen)を基本史料として、ヒューブラーのザクセン王室宮廷楽団内での活躍と同楽団の関係者について紐解いていく。本史料は18〜20世紀における現ザクセン州地域の行政分野全体を記録した貴重な歴史史料であり、宮廷関係者の情報にも富んでいる。そこで、現在オンラインで閲覧可能な史料の範囲[1]で、初めてヒューブラーの名前が記載された1845年版から1878年版の情報を整理したい。また、本史料に基づいて、以下にヒューブラーの生涯年表を作成した。その際の補足資料は“Concertstück für 4 Hörner du Orchester von Carl Heinrich Hübler (1822–1893)”, Partitur, Rom 189a, Robert Ostermeyer Musikedition, 2006, p.4.である。

基本的にザクセン王室宮廷楽団員名簿は、まず候補者として採用され、後に正式団員として加えられた。はじめに1845年版について、ホルン奏者の欄には最上段にハーゼ、次にレヴィの名前が確認でき、ヒューブラーは候補者名簿に挙がっている。

Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1845, Dresden, Heinrich, 1845, p.29.
図1(画像中の印は筆者によるもの、以下同じ)

出典:Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1845 , Dresden, Heinrich, 1845, p.29.(バイエルン州立図書館, scan no. 91. 参照:2022年1月29日)

Waldhornisten :
August Haase
Joseph Rudolph Lewy

Expectanten
Heinrich Hübler
Julius Schlitterlau
Johann Wilhelm Lorenz

また、彼が本作品を作曲する契機に関与したユリウス・シュリッターラウ(Julius Schlitterlau)とヨハン・ヴィルヘルム・ローレンツ(Johamm Wilhelm Lorenz)の2名のホルン奏者も候補者名簿に挙がっている。先述の通り、ヒューブラーは1843年からレヴィとの付き合いがあり、1844年からは病人の代役を担っていたことから、候補者リストへの加入は概ね今後の採用が確定した見習いであったと推測される。
なお、当時の同楽団及び宮廷歌劇場の楽団長は音楽家のリヒャルト・ヴァーグナー[2]:(Wilhelm Richard Wagner、1813-1883)であった。

Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1845 , Dresden, Heinrich, 1845, p.28.
図2

出典:Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1845 , Dresden, Heinrich, 1845, p.28.(バイエルン州⽴図書館, scan no. 90. 参照:2022年1⽉29⽇)

  1. Musikalische Kapelle und Hoftheater
    (中略)
    a) Musikalische Kapelle
    Kapellemeister: Karl Gottlieb Reisiger
    Richard Wagner

正式に団員として記載されたのは1854年版のことであった。

Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1854 , Dresden, Heinrich, 1854, p.41.
図3

出典:Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1854 , Dresden, Heinrich, 1854, p.41.(バイエルン州立図書館, scan no. 59. 参照:2022年1月29日)

芸術分野での貢献が認められ、1874年にはザクセン王国の名誉勲章(A. E. †)を受賞している。

Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1875 , Dresden, Heinrich, 1875, p.7.
図4

出典:Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1875 , Dresden, Heinrich, 1875, p.7.(バイエルン州立図書館, scan no. 27. 参照:2022年1月29日)

Ehrenkreuze.
1874(略)
〃 Hübler, Heinrich, desgl.
※desgleichen: Kammermusikus bei der königlichen Musikalischen Kapelle

Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1875 , Dresden, Heinrich, 1875, p.23.
図5

出典:Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1875, Dresden, Heinrich, 1875, p.23.(バイエルン州立図書館, scan no. 43. 参照:2022年1月29日)

また、1875年版からは、その後、アルブレヒト勲章2等騎士(A. R. 2. )を授けられていることが分かる。

Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1877 , Dresden, Heinrich, 1877, p.26.
図6

出典:Staatshandbuch für den Freistaat Sachsen: 1877, Dresden, Heinrich, 1877, p.26.
(バイエルン州立図書館, scan no. 48. 参照:2022年1月29日)

余談ではあるが、ヒューブラーが師事したハーゼは1814年から1856年まで同楽団に所属しており、在籍中の1819年版の史料では、初期ロマン派を代表する音楽家のカール・マリア・ヴェーバー(Carl Maria von Weber, 1786-1836)がザクセン王室宮廷楽団の楽団長を勤めていた。

Königlich Sächsischer Hof-, Civil- und Militär-Staat, Leipzig, 1819, p.50.
図7

出典:Königlich Sächsischer Hof-, Civil- und Militär-Staat, Leipzig, 1819, p.50.(ザクセン州立大学図書館ドレスデン デジタルコレクション 参照:2022年1月29日)

ヒューブラーの生涯年表
ヒューブラーの生涯年表

4. 『4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック』

Ⅰ. Allegro maestoso 速く 荘厳に ヘ長調 4/4拍子
Ⅱ. Adagio quasi Andante 緩やかに、おおよそ歩くような速さで 変イ長調 3/4拍子
Ⅲ. Vivace 活発に ヘ長調 6/8拍子

4本のソロホルンとオーストラの楽曲のうち、最も著名なロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810–1856)の作品Op.86は、1849年2月18日から3月11日の間にドレスデンで作曲された。10月15日、ヨーゼフ・ルドルフ・レヴィのアパートで非公開演奏が行われ、ヒューブラーはレヴィに加えて、ザクセン王室宮廷楽団員のシュリッターラウとローレンツとともに4本のソロホルンを演奏した。ヒューブラーはこの一件から強い影響を受けるとともに、第1ホルンの楽譜に対して相当な困難さを感じたことから、ホルンの奏法を熟知した上で自ら作曲する計画を成熟させ、1856年にドレスデンにて本作品『4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック』を完成させた。ライプツィヒのErnst Wilhelm Fritzsch より出版され、数々の音楽作品を評価した音楽週刊誌 „Musikalisches Wochenblatt” の1889年9月19日の記事によれば、ヒューブラーの作品を次のように評価している。

Musikalisches Wochenblatt. v.20 1889.: Organ für Musiker und Musikfreunde, Leipzig, E.W. Fritzsch, 1889, p.460.
図8

出典:Musikalisches Wochenblatt. v.20 1889.: Organ für Musiker und Musikfreunde, Leipzig, E.W. Fritzsch, 1889, p.460.(ミシガン大学所蔵, HathiTrust Digital Library, scan no. 472. 参照:2022年1月29日)

本作品は、重要な着想には基づいていないものの、巧妙な作りと4本のホルンの役割と扱いが非常に興味深い、極めて優れた構成である。本作品を作曲したザクセン王室宮廷楽団の第1ホルン奏者は、ホルンには非常に単純で自然的なものが、何よりも確実で良い効果をもたらすこと、そして、この楽器であらゆる実験的な試みを行うことを避け、ホルンの持つ演奏能力を慎重に検討することが最良であることを本作品に示した。以上の観点から、ヒューブラーのコンツェルトシュテックを観賞することは、誰にとっても示唆に富み、価値のあることである。本作品は伝統的な形式で、冒頭の力強いアレグロから、響きの美しさが際立つアダージョへと進み、活気に満ち溢れたままクライマックスを迎える。

ヒューブラーとシューマンの作品のいずれも、ホルンの豊かな表現力を引き出し、聴衆を魅了しているが、シューマンの作品を演奏するにあたり求められる演奏技術は非常に高度であり、とりわけ高音域には卓越した才能が求められる。一方で、ホルンの名手と謳われたヒューブラーは、奏者としてホルンを非常に熟知していたからこそ、奏者に無理のない音域に留めている。シューマンが作品の中で、第1ホルンに超高音のダブルハイFを要求したことに対して、いわゆる上吹きであったヒューブラーが高音域よりもむしろ低音域で高度な見せ場をつくり、超低音のペダルトーンHまでを要求したことについては、何かしらの意図が込められていたのではないだろうか。

今回の演奏では、曲全体の感触を損なわないように配慮しながら、ソリスト3人での演奏のために編曲した上で、ヒューブラーの作曲意図を汲みながらホルンとオーケストラの響きを最大限に活かせる形で抜粋し、演奏を行う。

楽器編成

フルート 2 トランペット 2
オーボエ 3 トロンボーン 2
クラリネット 2 チューバ
ファゴット 3 ティンパニ
独奏ホルン 4※ 弦五部

※今回は当部ホルンパート4年生の人数に合わせ、編曲のうえ3本で演奏


  1. 1845, 1847, 1850, 1854, 1857, 1858, 1860, 1863, 1865, 1870, 1873, 1875, 1876, 1877, 1878年版 ↩︎

  2. 当時のヴァーグナーは、ドレスデン宮廷歌劇場における1842年の『リエンツィ』初演とその大成功に始まり、翌1843年の『さまよえるオランダ人』初演とそれによる同劇場第二指揮者就任、歌劇『タンホイザー』と『ローエングリン』の完成、1846年のベートーベンの交響曲第九番の名指揮をするなど、1849年に革命運動への参加に対する逮捕状の発行を要因にドレスデンを発つまで、同劇場で名声を獲得し続けた。「ワーグナー」, 『日本大百科全書』, Japan Knowledge Lib. ↩︎


参考文献

文責:ホルン4年 東海林さくら